震災支援タイトル

一般社団法人 東京都医療社会事業協会         No.4  2011.8.25

災害支援ニュース

つたえる
心をつたえる…様子をつたえる…事実をつたえる…手立てをつたえる…気持ちを伝える

 災害で亡くなられた方の情報が、今も新聞に新たに記載される日が続いています。被災地 は、避難所から仮設住宅や一時借家に移る方の数が日々伝えられ、9月末の避難所閉鎖に向けて落ち着かない日々を送る方も少なくありません。8月には、業務や個人旅行で、被災地を訪れた方もいらしたでしょう。都協会で行った福島へのバスツアーでも、津波に無残な姿となった家々に、大きなため息が聞かれ、現地はまだこれから、息長い支援が必要であることを知った、と感想にもありました。
  7月からは、現地や事務所での支援報告会を協会事務所で開き、それぞれの参加経験や活動報告、これから参加をと考えている方たちへの情報をと、新しい支援者を拡大しています。毎週 金様・土曜日の電話相談、会員所属機関での広報と、都内に避難された被災者への相談ボランティアも継続して行っています。『医療ソーシャルワーク』59号では、被災地の皆さんへSWからのメッセージを掲載、エールを届けます。

7月1日(金) 協会事務所における災害支援電話医療福祉相談(フリーダイヤル)開設
毎週 金曜日・土曜日に2名体制で対応
7月9日(土) 第1回震災援報告会 協会事務所
現地ボランティア 石巻 田上(6/25 ~6/27)
事務所ボランティア、電話相談、
7月13日(水) モダンホスピタルショウ 震災関連シンポジウム出席
7月15日(金) 第3回震災支援対策会議
現地支援(石巻市遊楽館 岩手県釜石市 福島県いわき市)
事務所電話相談に参加して(会員)
7月16日(土) 理事会 日帰りボランティアツアー企画承認
7月20日(水) 日本医療福祉協会 支援報告会
7月28日(木) 代表世話人会でツアー、電話ボランティアについて参加呼びかけ
8月6日(土)
~11日(木)
武山 石巻
8月17日(水) 震災支援対策支援委員会
8月20日(土) 理事会  電話相談 会員のみ(樋口)
8月21日(日) いわき市災害支援ボランティアツアー 参加15名
8月29日(月) 日本医療社会福祉協会 報告会参加(武山)

石巻市 遊楽館福祉避難所 支援報告8月6日(土)~11日(木)        武山ゆかり
 8月6日(土)仙台は、七夕祭りに集まるたくさんの観光客や近隣の町から集まった笑顔の家族連れで賑わっていた。昨年、穏やかな春の日に、石巻への出張で利用したローカル色豊かなJR仙石線は、七夕飾りを堪能した家族や買い物帰りの乗客でいっぱいだった。未だ全線復旧はしておらず、まずホームの「乗り換え」表示を確認する。島々に守られ、被害の少なかった松島海岸には、観光客も多く降りた。そこから先の沿岸をたどる区間は、バスへの乗り換えが必要だ。外海に面した陸前大塚駅付近は津波の爪痕が続く。ため息の出る悲しい景色の中を通り抜け、再び仙石線へ乗りこみ石巻へ。内陸にある遊学館へ向かう電車の待ち合わせ時間までを利用して石巻駅周辺を歩いた。3月の終わりに泥だらけの石巻の町を、市街地に乗りあげ傾いた大きな船を迂回しながら歩いた時には、どうしようもない苛立ちと悲しみに言葉もなかった。5か月を迎えようとしている今は街の角かどに、信号の代わりにヘルメットの県警職員が立ち笛を鳴らす。所々に店を開けている商店が「被災した品物ですが、よろしければお使い下さい」「震災特価です!」と自らも被災しながら助け合い、励まし合っている。駅前のかつての商店街はまだほとんど壊れたシャッターを降ろしたままだが、ヒマワリが植えられたプランターが並び、張られたロープに子ども達の「ねがい-元の石巻に早く復興しますように」と書かれた短冊がはためく。3月は泥と瓦礫に埋もれていた石ノ森章太郎のコミックの主人公は、品物の無いショーウインドの前で、今は「希望」に向けてスックと立っている。
  津波に襲われ真っ暗なままだった石巻市役所の1階には、名産品や日用品の店が入り、災害支援応援コーナーも出来ていた。たくさんの寄せ書きや激文が貼られ、訪れた人へのメッセージが『お一つずつお持ち下さい』と置かれていた。『楽しみカエル』の折り紙や力強く『生きる』と書かれたカードがボランティアの手で作られ人々を励ましていた。
  石巻観光協会売店の弁当を手にのりこんだ電車で30分弱。最寄りの前谷地駅からタクシー一区間で「遊楽館」に午後四時到着。7月に続き二度目の支援とのことで、もうすっかり遊学館に根を下した亀田総合病院のNワーカーに温かく迎えられた。入口には北海道と書かれたビブスを着けた受付職員2名、次にずらりと並んだ看護師の前を通り挨拶する。アリーナに並ぶ段ボール製ベッドは、最盛期に比べると随分の余裕。それにほとんどベッドにはおらずテレビやお茶のコーナーに和やかに集っている。アリーナとは通路を挟んだ医療・SW等スタッフコーナーにまずは落ち着き、明日からの支援に必要な資料に目を通した。これから今日の振り返りと明日の業務の予定書き込みの時間と言うNさんと一緒に初めての業務を行い、日報を日本協会事務所に送った。入所者は夕食を終え、まだ日没には一時ある夕方の山の景色を眺め、かつての暮らしか、明日にか、想いをはせている。
  日暮らしが鳴く頃、夕やみに追いかけられるように古川の宿舎に向かった。とっても狭いトイレと小さなユニットバスのピンクの外装の新婚向けマンションで5泊、毎晩のように若いNさん、日本協会理事のHさん、県協会をしょって立つFさんと毎日、尽きることなく話し、励ましあい、話し疲れて眠った。全任者のTさんも「感想ノート」に記した面々も、「新婚のように」たくさん語ったと書きこんでいた。その意味でも参加したそれぞれがソーシャルワークの原点を、自らに問い、仲間と共に考えあえる、素晴らしい機会であったようだ。
  石巻は、仮設住宅があちこち、飛び飛びに出来、合併前の旧市街に近いところで広めの仮設は人気があり、病院にも遠方で狭いところは保留やキャンセルが当然多い。入居に悩む方の相談にのり、市の介護保険担当者と支援の継続して必要な方の入居先を調整するなど、きめ細かな対応や離れて避難する親族への働きかけなどに追われる。関係機関や遊学館内部のスタッフとの会議や協議も繰り返し行われ微妙な入所者の心理に添う運営が大切に進められる。こうした組織運営を創りあげて来た前任MSW諸氏の力の大きさと苦労に頭が下がる。そして、その中で慣れないなまりを懸命に聴き取りながら相談・調整業務を進める若いワーカーたちのガンバリも貴重だ。9月末には、避難所は閉じられる予定であり行き先への不安は、残っていく者ほど強い。サポートを多く必要とする方々を集めてのエリアを予定する仮設の建設や入居者調整がやっと進められ始めている。しかし入居者自身の声が届く、新しい生活の場の確保は、これからだ。仮設に入った後も、SOSや寂しさの表出が出来る関係をつくる素地も、ここで創って送り出す。入所者の中には、親族を失い、生きる希望も健康も、一時は失った人も少なくない。「でも、みーんなが、いっしょ懸命にやってくれるでしょ。これはこっちも生きなくちゃ、と思うたのさ」と語って下さる方に、5日間に二人も出会った。
  安全な山の中に位置する「遊楽館」での業務終了後、短い日没までの時間に急いで海沿いの地区に向かった。被災したその地区の包括支援センターとは頻繁なやり取りがある聞きなれた地区だが、そこの「生活」は大きく破壊されていることが、行ってみて分かった。まだ、大津波に襲われたそのままに、大きな口を開けたままの家々が延々と続く。幽霊のように外壁が垂れ下がる大型倉庫群、錆つき横たわったままの船。崩れた堤防の向こうは、嘘のように静かな夕映えの海面。女川地区が復興するには、まだまだ日にちも、そして大きな金額の支援が必要だろう。そしてこういう海岸線がずっと千葉から岩手まで続いているのだ。「未曾有の」という言葉を今回は頻繁に使う。この被害を乗り越えるには、その日安全なところにいた、日常をすぐ取り戻せた者たちがそれぞれに、もっともっと、力を尽くすことが必要だ。そのことを、この地に立ち、被災者と話し、強く感じて欲しい。遠方から、来て、働いてくれることへの感謝が生きる意欲に繋がり、そのことが私たちが働く力となる。励ましに来た「歌のボランティア」にともに涙し、「応援力士」のシコに力をもらい、トークに一緒に笑い転げる。そんな時間も含め、たくさんの人が来てくれることが、復興への小さくとも確実な一歩になっていることを実感した5日間であった。   
                                
 福島県いわき市 災害支援ボランティアツアー 
8月21日(日)8:00東京駅丸の内北口集合 18:00 東京駅帰着 すみだ川観光バス貸切
参加者 15名(内 理事6名)参加費用 500円(ボランティア保険料)昼食代(各自負担)

訪問地域 いわき市復興支援ボランティアセンター(オリエンテーション)
  四倉-病院、道の駅、平下高久かねまん-津波、地震被害確認、買い物支援、
  新舞子海岸、薄磯海岸、豊間地区、塩屋崎灯台下、小名浜漁港、勿来地区

福島県いわき市ボランティア
「震災支援」から「復興支援」へ

武山ゆかり
  東京から「日帰り」で支援に行ける所で、「安全の北限」が福島県いわき市でした。
個人的な調査行、地域団体での支援に続いて二度目のボランティア活動をと張り切っていたのですが、今回はお盆明けでほぼ屋外での作業が終了したことと、朝からの雨のためにマッチングにのる作業はありませんでした。それでも、被災地に行ったことの意義は揺らぐことなく大きかったと思います。
 支援に入った石巻の状況に言葉を失ったという田上理事が「東京都のソーシャルワーカーは、みな一度は被災の現場に立つべきだ」と都協会の災害支援対策委員会で報告されました。しかし、宮城や岩手の被災地でのボランティアには、最低でも数泊は必要です。厳しい現場の多い会員の業務の中で連続した休暇を取ることは困難なSWは少なくない現実の中で、被災の実情を知ることを含め、今回の日帰りボランティアを企画しました。短い期間の募集にも、十数名の会員が応募されましたが「原発からの距離は?」「被爆の心配は?」との問いあわせも何件かありました。参加されたSWの中には、今回大きな被害を受けた病院から少なくない患者さんを引き受けた病院や老人保健施設に勤める方もあり、「こうした方々が、どのような被害を受けた地域から避難して来られたかを知りたい」との、強い思いを持たれての参加もありました。
 まず、8月初めに「復興支援」と名称を変えたばかりのいわき市ボランティアセンターに立ち寄り、前橋市から出向していた社会福祉協議会職員の方からセンターの活動内容や当日のボラ支援の状況をお聞きしました。盆明け以降、新規のボラ受付や、水戸駅でボラ受付後いわき市まで移送をしていたボランティアバスも修了しており、当日は雨のため屋外作業は無し、写真洗いなどの屋内作業のみが行われているとのことでした。最盛期は700人以上のボラさんで送り出しに半日かかっていたという大ホールも当会の貸切りに近く、支援のメッセージ作成や記録を見て回るなど、ボランティアに入られた方々の熱気、迎えて手配、対応されたスタッフのご苦労がひしひしと伝わりました。また、現地職員からは、今後は新たな孤立を防ぐ活動や、復興への支援に活動が変わっていく準備を進めているという状況をお聞きしました。スタッフへ、激励の差し入れをお渡しし、ご説明・報告のお礼をしたのち、寄せ書きの前で、全員で記念撮影し、センターを後にしました。
 その後、参加者の受け入れた患者さんの入院していた病院のある地域へ向け、雨の中を走り、まだ津波被害の生々しい四ッ倉地区を通り、再開間もない「よつくら道の駅」に駐車し、話を伺いました。水深2メートル以上の強い波で建物は躯体のみかろうじて残し、まだ厨房設備は復旧せず。品物を並べる生産者から、お話を伺い、野菜やお土産を買わせてもらいました。隣接する港には、打ち上げられた船が無残な姿を曝し、その横にはおびただしい車の残骸、市場の屋根や2階のガラスはことごとく壊れ、まだ再開は・・・。しかし「福島の豊かな海を、祈 早期再開」の横断幕が力強く、市場の壁に掲げられていました。 
 時折激しくなる雨の中、海岸線を南下し、風光明媚な海辺の民宿やレストランが、津波に破壊され、休業の札を掲げて連なっている様相に、今後の経済復興の大変さを思いました。 7月に地域の団体で支援に入った薄磯海岸も、有名な海水浴場であったとのことですが、 1月経過後も復興の兆しはなく無人の集落に。海沿いの中学校は廃校のまま、校庭には4階 建ての校舎より高い瓦礫の山が占拠。運び出す先も未定だそうです。
  次々と津波と地震に被災した集落を巡り、被害を目の当たりにして、参加者は黙するのみ。未だ、再開が一部にとどまる小名浜魚港、勿来(なこそ)の市街を抜け、帰途につきました。
  帰りの車中では、参加者の感想を交換し合い、18時過ぎには東京駅に帰りつきました。

<以下は参加者の感想です>

  • 被災地の方の役に立ちたいと、張り切って参加したが作業が出来ず心残りではあった。しかし、災害の地に立つことの意義は大きかった。

  • ボラセンターでのたくさんの寄せ書きや檄文,千羽鶴に、多くの人のいっぱいの想いが詰まっていることがわかった。(被災地の方々と全国から支援をしたいと思う人たちの)つなぎの役割を果たすことの重要性を感じた。

  • 半年経ち、被災地以外では震災のことが忘れ去られようとしていることを感じていたが、 現地では、まだ「これから」であると強く思った。

  • 半年経って、壊れたままの家々を目の当たりにして、地震の起きた時から、時計の止まっている被災者がいることを深く感じた。

  • 隣り合わせの一方は住み続け、一方は退去という分断に胸が詰まった。

  • (業務で)被災者を受け入れているが、実体験が無いままに対応していた。現地の方の体験を少しでも共有出来たと思う。

  • (被災の激しさに)復興には時間がかかることが実感出来た。息長く、何らかのかたちでの支援をしなければと思った。

  • 自分の家が無くなるという経験の重みを感じて感無量。どのように援助できるか考えた。

  • 震災からずっと、何が出来るかと考えて来たが、ここへ来たこと自体が大きな一歩と感じた。この状況を伝えることが、瓦礫撤去だけではない「援助」であることを知った。

  • 震災への熱い思いを持つMSWの先輩や仲間と交流出来てとてもよかった。

  • 被災との関連の医療・生活問題は10年、20年と続き現れる。そのことを胸に私たちは仕事をしなければと強く感じている。この被災地の経験をしっかり自分の業務に繋げることをしていきたい。