震災支援タイトル

一般社団法人 東京都医療社会事業協会         No.5  2011.10.05

災害支援ニュース

つたえる
心をつたえる…様子をつたえる…事実をつたえる…手立てをつたえる…気持ちを伝える

 震災から7カ月を経過して、避難所閉鎖のニュースや仮設住宅の暮らしが報道されることが多くなってきました。日本協会が支援に入った福祉避難所「石巻遊楽館」も9月末で閉鎖になりました。最後の1週間に、支援に入った様子をお伝えします。
 都協会では8月9月と毎週末を交代でフリーダイヤルの相談事業を続けました。東京新聞などでも報道されましたが、特に報告出来る相談は寄せられず、次の支援の展開を考えています。秋は、各ブロックで医療福祉相談や地域の祭りなどへの参加も多いと思います。 こうしたところへ、支援や相談の案内を掲示、宣伝などしていくことを進めています。
 11月12.13日には、宮城県で被災地の医療・介護・福祉関係者等との交流会や震災後の地域の様子を知る機会を予定しています。
 日本協会も、新たな支援のためのスタッフを募集中とのこと、各ホームページをぜひ見て下さい。寒さに向かって、足りないことも沢山!これからも、あなたの力に期待しています。

黄金の穂波を忘れない  遊楽館を後にして~

東京都医療社会事業協会
武 山 ゆ か り

 3回目の遊楽館は、いよいよ全館撤収を目前の9月25日~29日までの日々を、残られた13人の方と、そして最後はほんの数人の方との「お別れ前夜」を経験する支援でした。
 かつて、スタッフもふくめると200人以上が生活していたアリーナが、各コーナーに励ましの手紙や入所者の作られた折り紙やカードで賑やかなほかは、大きな空間を見せてひっそりしてしまいました。暑くて涼みに出た外の洗濯コーナーや喫煙所も、ひんやりとした空気に、虫の声が淋しげです。夏は緑だった中庭の楓が、赤く色づき始めていました。
 初回は、まだSWが津波により閉鎖された石巻市民病院のMSW1人のみ、入所者の把握もまだの3月末、全国のMSWに早急の支援参加を呼び掛ける「現場から」の生々しい報告。2回目の8月初めは、仮設住宅がベッドを置くには狭かったり、病院や市街地から遠かったりで、決定に困惑する入所者と一緒に、悩んだり、涙したりの支援。そして今回は、仮設への入所準備の毎日でした。入居説明会、鍵の受け取り、場所の確認、そして、はたしてそこでやっていけるか?の不安をともにする一連の時間を共にしました。市の介護保険課職員やPCATの医師、心理士、看護師、MSWの仲間と、相談し、協議しながら進める中で、地域や親族の「絆」を断たれたことの被害の大きさをあらためて実感し、被災地のすべての人々のやりきれない悔しさや悲しみを共有した毎日でした。
 仮設での暮らしに移行後最も頼りにするケアマネさんは、ご自身も被災しながらも、震災以後休みなく避難所を駆け回る日々を送ってきたそうです。また避難所から仮設への入所が増えると新たな生活へのきめ細かな支援、そして2年後の仮設閉鎖後の行き先への準備と「見えない先」を探らねばならないこれからを考えると、夜、暗い地震と津波に失われた街を車で走るのと同じ様に、不安と情けなさに前方がかすむという・・・。
 仮設の備品が、ひとり暮らしに4組もの夜具、茶碗類との報告を看護師さんにすれば、「あたしら、みなし仮設で狭いアパートに家族でいるけど、布団も毛布もなーんも貰えなかったからねぇ。寒くなったら出費がかさむわ、流されて何も無いからねぇ。」とつぶやく。かえす言葉もなく「つらいね。」とこちらもつぶやくしかない。
 こんな思いを繰り返しながら、外出や仮設への荷物の搬入に、送迎や運搬のボランティアさんと車中で仲良くもなりました。全国から初めての土地に運転の支援に集まり、これも全国から集められた、各施設で使う頻度の少ないため、とりあえず支援に提供された旧式の慣れない車で、地震によるデコボコやマンホールの飛び出した悪路を一日中、休みなく走り回る。夜はプレハブで自炊し、雑魚寝の1週間交代。地元の送迎機関のスタッフに教わった農道の近道を教えて仲良くなったオンボロワゴンのペアは、福岡と埼玉の障害者施設の職員でした。また、退所後の医療は、水没や地震で機材を失い、診療再開の出来ない開業医や医療機関を助けて、往診専門のクリニックが開設され、仮設を回る体制が動き出し、遊楽館入所中から患者を繋げて診てもらえるようにもなりました。こうした様々なボランティアや機関が有機的に、理解し合って被災者と家族をきめ細かく支える状況が、ここ遊楽館では展開されてきました。スタッフが1週間ごとに変わる機関も少なくなく、「同じことを何回も話す、引き継ぎがされていない!」との苦情も入所者から聞かれることもあったけれど、その都度システムを見直し、申し送りを積み重ねて、入所者にも、スタッフにも信頼される組織として支援を続けられました。その評価は遊学館閉鎖後の支援をも求められていることに現われています。すでに、石巻での新しい活動が予定され、日本協会震災対策本部からは、引続き10月からのボランティア募集が提起されています。
 石巻駅前のロータリーは、すっかり以前のにぎわいやきれいな外観を取り戻していますが、
港や石の森漫画館やその周辺は未だ営業は叶わず、女川町は先日の台風でも被害を受けています。「地震の前は、このスーパーに自転車やタクシーで買い物に行ったのよぉ~!」と教えてくれた高齢者は、市街地から離れた仮設に入所となり、繁華街にはめったに来られないであろうし、もうじき、動きの取れない冬も来ます。経済の復興はまだまだ時間がかかりそうです。遊楽館は、市街地から3,40分、一面田んぼの続く道をひた走った山の上にありますが、稲穂の黄金に実った田には、先日の台風で荒れた様子が目立ちます。「あらー!倒れた稲は早く刈らないと芽が出っちゃうでぇ、按配悪いんだわぁ」と、婆っちゃは言いますが、手が足りないのか稲刈りは進んでいません。日本の食料を、全国のコンビニのおにぎりの棚を支えて来た「宮城のササニシキ」は、津波で塩をかぶった田も、流された機械も含めて、元の豊かな実りを取り戻すのは、労力も時間も、大変な状況がありそうです。
 こうした産業・経済はじわじわと、被害が忘れられるほどの年月をかけて、健康や命に影響を与えるでしょう。さしあたって、工事完了から2年3カ月と政府広報に書かれた仮設住宅の入居期限は、県の判断で延長出来るものの、薄い壁一枚で、外部や隣室の声も聞こえ、既に雨漏りもしている建物で長くは暮らせず、また新たな転居や別れが予定されています。家族を亡くした入所者に「私は、今は石巻に帰ってきているけど、遠くに嫁いであてにならない娘と思って、普段はケアマネさんやヘルパーさん、ご近所に頼ってね。」とおかしな「絆」を押しつけて、退所後の手配を、安否確認の手はずを二重三重に整えましたが、東京に帰ってからも気にかかっています。復興関連工事で忙しい息子が引き取った両親は、何とか介護に繋がっているけど、狭い二間(ふたま)の仮設住宅で息子さんはゆっくり休めるだろうか?吹きさらしの寒い仮設でこの冬、健康を保てるだろうか?酒量は増えやしまいか?
 電話であれこれ相談した地域の病院MSWは、5月以降訪問して歩いた近隣病院のMSWは、そろそろ疲れが出て来ているのではないか?などなど、たくさんの思いを残しながら、夜は真っ暗な田圃の中を、銀河鉄道の様に一直線に横切って走るローカル線に揺られて石巻を後にしました。